2006.10.7
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅴ
依ってこの2時間は、やるか、やられるか、後顧の憂いなく正々堂々音楽と渡合う積りで会場まで足を運ぶ。だからこそ敢えて云うが、私は室内楽という世界を避けて通ってきた、否、恥ずかしながら理解出来なかったと正直に言おう。では何故そんな相手に勝負を挑んだのか、と訝られるかも知れないが、私にとっては他流試合、道場破りの気概で第一生命ホール門を叩いたのだった。
さて、相手を見ればショスタコーヴィチのカルテットという異国から来た様な剣士が、まるで及びも付かない得物を構えている。どう打ち込んでよいやら・・・先ずは相手の出方を伺うことにした。丁丁発止と試合が進み、とうとう「最後のカルテット」が始まる。
『ショスタコーヴィチの音楽は歪です』と演奏者の荒井氏がプログラムの巻頭に書いて居られるが、それは私なりとも第五シンフォニー以降の、特に第8、第9を介して理解できたし、その「歪さ」が作曲者の「不安」と直結していることもムラビンスキが指揮したそれらの演奏から体験している積りだった。だが、今宵のモルゴ―ア・クァルテットがこの曲で現出させたのはその比ではない。四声部という必要最小限の骨格(私がカルテットに抱いていた苦手意識の核心でもあったのだが)故になのであろうショスタコーヴィチが自己の死を眼前にした、何処へも持って行き様のない、発狂しそうなまでの「不安という歪み」を作曲者の「生活反応」として再現するでけでなく、私の身体へ彼がその時体験した鼓動や脈拍、呼吸をも伝えて来る、などという生易しいものではない。迫って来るのだ。
人は皆死ぬ。蓋し我々凡夫はその避けようも無い事実に対し一種「開き直り」る事で日々の生を謳歌出来る。なれど「不安という歪み」を内包し続けてきた天才にはそれが出来なかったとしか思えない。ショスタコーヴィチは死を我々以上に恐れ、慄き、その苦しみからのた打ち回る。でも死にたくない。でも死は確実に忍び寄っている。でも、でも、でも・・・。結局、人として死という運命を逃れざるものとして、異才はあろうことか自らの彼岸を表現してしまう。彼は死をも音楽にしなければ「不安」だったのだろう。それは彼の偉材と気質が故にそうせざるを得なかったのだ、ということを気付くに充分すぎる程、四人の奏者は終結音後の長い祈りのような沈黙の中で
さえも私に迫り続けた(15番カルテットが終わると時間感覚が失われる程の沈黙が続いた)。
負けた。完敗である。
ショスタコーヴィチの彼岸、モルゴ―ア・クァルテット、なかんずくカルテットという世界・・・忘れ様にも忘れられない。
公演に関する情報
〈第一生命ホール5周年記念コンサート クァルテット・ウェンズデイ・スペシャル〉
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅴ
日時: 2006年9月27日(水)19:00開演
出演者:モルゴーア・クァルテット
[荒井英治/戸澤哲夫(Vn)、小野富士(Va)、藤森亮一(Vc)]
演奏曲:
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第13番変ロ短調作品138、
同第14番嬰ヘ長調作品142、同第15番変ホ短調作品144
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅴ
――計5ステージに及んだ「ショスタコーヴィッチ弦楽四重奏曲全曲演奏会」。すべての舞台がはね,アーティスト・聴衆・スタッフを交えてのレセプションをしめくくるSQWディレクターの謝辞の中での言葉である。
前段は次のとおり。
「前世紀は2つの大きな戦争がありました。ひどい時代でした。お集まりの皆さんのほとんどが,この世紀にお生まれのことと思います。しかし,モルゴーア・クァルテットの演奏を聴いている中で,"20世紀を許してもいいのではないか"と思えました」
たった一晩聴いただけに過ぎないが,この言葉には至極共感を覚えた。
なぜなら,4本の弦の調べからは,20世紀に起こったある一定の制約,そのもとで最大限に己のもつ才能を極限まで伝えようとする意思――一人の人間としての生き方と言ってもいいかもしれない――が感じられたからである。
楽譜には,こんな指定があるのだろうか。
たとえば,「思想的抑圧下における人間の喜びを表現せよ」,または,「『森の歌』の評価による,あなたの思いをピチカートで」。......そんなものが仮にあったとしても,作品発表時に書くことはありえなかっただろう,記譜上には。
大事なことは,20世紀という難しい時代に,この一人の「才能」を勝ち得たことだ。それを,モルゴーアQの,ある時は感情のたけり,あるいは諦念,そして微かな希望への期待,等々の感情の襞を自在に表現する巧みな演奏によって感じる。
SQWディレクターはこう続ける。
「"ベートーヴェンを持っている","モーツァルトを持っている"等々の語り口があります。しかし,いま,わたくしたちは,モルゴーアQを通じて,"ショスタコーヴィッチ"を,確かに,持っている,のです」
この最終日は,400人を超える聴衆が集まっていたのだった。5ステージ中,最高とのこと。
* * *
1階の席に座る。見渡すと,おおいなる人の流れ。「土日の公演でモルゴーアは盛り上がっています」とTAN広報からメールをいただいて駆けつけた次第ではあるが,その言葉を実感する。
和装の令夫人あれば,「これッ! この前の『宝塚』でも履いていったんだよォ」と靴を見せ合う女子学生おぼしき2人組もあれば,トイレでは「......ううう。今日は13番からか......。ううう。......」と呟く恐らくは弦楽四重奏に入れ込んで幾星霜なりし初老の男性もあれば,はたまた,デイパックを背負い込んで,演奏中は靴を脱いでお寛ぎの状態ながらもステージの動きにしっかり反応しているご老人あり,目を転ずれば,髪をポニーテールに結わえ白く暖かそうな服をまといながらもキリッとした身のこなしで舞台に対峙している若い女性など,ユニークなオーディエンスを見ることができる。
* * *
演奏の様子に移る。
本日のプログラムは第13番,14番,休憩を挟みクライマックスの第15番。アンコールは2曲。チェロソナタop.40第1楽章第2主題。そして第9番op.113。
ヴィオラから始まる第13番変ロ短調op.138は,1stヴァイオリンの提示を機に,サウンドが溶け合い,離れ,また溶け合うという様相を呈す。第2楽章途中ではチェロのランニングベースをフューチャー。第3楽章ではそのチェロの重厚さが押し出されるとともに,最後はヴィオラによる幕引き。全体にメロディの単調さがかえって薄暗がりの部屋に佇む知識人の思想の過程を映し出しているよう。
続く第14番嬰ヘ長調op.142は1stヴァイオリンの軽やかな出だし。しかし,20世紀の人は,やはり「屈折」するのである。否,時代に向き合うほどに屈折するのである。
* * *
1971年の五木寛之の小説,「浅の川暮色」を例にとる。ショスタコーヴィッチを作品そのものよりも,いかに「思想的道具」として表現しているかが見て取れるのではないだろうか。(注 五木寛之は共産党下における文学者の苦悩と職業的・心情的との葛藤を描いた『蒼ざめた馬を見よ』で1967年直木賞受賞)。
「あの頃おれはいくつだったろう。......下宿の床の間に『ドストエフスキー全集』をわざわざ乱雑に積み重ねたり、......洋裁学校の生徒が集まる喫茶店にショスタコーヴィッチの〈森の歌〉のレコードをあずけておいて掛けさせたり」
また,「歌は世につれ,世は歌につれ」という名文句がある。しかし,「『歌は世につれ』ることはあっても,けっして『世は歌につれ』ることはありません」と言うのは,パッヘルベル「カノン」にインスパイアされ名曲「クリスマス・イブ」を書いたポピュラー音楽作曲家の大御所・山下達郎氏である。
また多大なるファンをもつ『のだめカンタービレ』では,モーツァルトのテンポを「車じゃないんだよ! この時代は。馬車!」なる科白もあるが,ことほどさように,「歌は世につれる」のではないだろうか(だからこそ音楽史を学ぶ意義もあるのだろう)。
しかし,それを踏まえて後世の人に受け継がれるのは,作品に込められた意思ではないだろうか。それも五線譜という制限の中で。
ショスタコーヴィッチは「何を伝えたかったのか?」――そんな所に興味を覚え,かつ,それをモルゴーアQのテクニックが喚起するのである。音階中に挟み込まれる一つの不協的な音符,その音符がもたらすテーゼからの展開――さぞかし,「一つの音符」をめぐって,クァルテットの中で議論が起こり,それを基にしたアンサンブルが繰り広げられたのではないかと推察される。
それを味わったのが第3楽章である。
1stヴァイオリンのピチカートから始まり,恐らくは人間が心に浮かべる感情が,伝えられる。
曰く,苦。痛。悲。哀。愛。恋。鬱。歓。醜。美。青。赤。明。暗。爽。鳥。猫。犬。野獣。鬼。天使......。人の心の襞に巣くう感情が,猫の目のようにクルクル,変わる。
* * *
そして,第15番変ホ短調op.144へ。
第1楽章は,中音と低音がほどよくブレンドしていきながら,第2楽章セレナードへと続き,熱いインテルメッツオを越えて,第4楽章ノクターンは続く第5楽章の葬送行進曲へ。チェロが重々しく,ヴァイオリンは高らかに。
しかし,これで終わらない。
第6楽章エピローグでは随所にほどこされるトレモロ・トリルの連続が,「生と死」のゆらぎを我が身へいざなう。
これで終わりだ。しかし終わりたく,ない。作曲家も,アーティストも,観客も。のたうち回る。
* * *
最後の一音。
ヴィオラは余韻を隠せない。チェロは目を閉じたまま。
この間,舞台も客席も,じっと身じろぎしない。
この間,恐らくは数十秒,実感としては数分。やおら1stヴァイオリンが手をあげる。
割れんばかりの拍手。
耳が痛いほど。ほんとうに痛い。1階席で聴くのは久しぶりだったけれど,こんなにもこのホールは響くのだっけ......。四方八方から音がつんざく。
そうだ,この響きは,オープンまもない頃の,若々しい響きだ――。そんなことも感じた。
* * *
20世紀,とある国が前提とした「社会主義レアリスム」下の作曲家,というイメージで曲を聴いてしまうのは,ぬぐおうとしてもぬぐえない。しかし,それをおいてもなお,ショスタコーヴィッチにつき合っていきたいと思う。
「次の世紀も,またその次の世紀も,ショスタコーヴィッチが生きる。それは演奏家の力によるものです」(SQWディレクターのレセプションにおける謝辞より)
この21世紀に,確かに,モルゴーアによって,ショスタコーヴィッチは確かに,ステージに,現れた。一人の人間として。
そんなことを,フランス共産党葬として埋葬された一作家を大学の卒論テーマとして選びながらも,一人の詩人として好きだった学徒は感じた。
「エルザよ 分別を越えた狂気の歌
けっして 終ることのない 歌
五月の月よりも もっと甘い
恋の歌 十月の歌
はてしない網のような歌」(大島博光訳)
ここに「社会主義レアリスム」があるのだろうか。そして,モルゴーアが奏でるショスタコーヴィッチにも。
公演に関する情報
〈第一生命ホール5周年記念コンサート クァルテット・ウェンズデイ・スペシャル〉
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅴ
日時: 2006年9月27日(水)19:00開演
出演者:モルゴーア・クァルテット
[荒井英治/戸澤哲夫(Vn)、小野富士(Va)、藤森亮一(Vc)]
演奏曲:
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第13番変ロ短調作品138、
同第14番嬰ヘ長調作品142、同第15番変ホ短調作品144
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅲ&Ⅳ
前日の二回の演奏会に引き続き、24日午後2時から第3回の演奏会が開かれた。
ショスタコーヴィチ、弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調(作品108)はそれほど長くない曲で、第1楽章と第3楽章の末尾がほぼ同じ造りになっている。ピチカートに合わせて同じ音を弾く第2ヴァイオリン戸澤氏の、勢いを付けた音が印象に残った。
ショスタコのドイツ語名でのイニシャル(D. Sch)が、音名で執拗にモティーフとして現れる有名な第8番ハ短調(作品110)には、一貫した緊張感が漂っていた。「D-Es-C-H」(レ-ミ♭-ド-シ)は、この曲全体を統一的に示す「記号」として用いられているから、この音を聴くたびに音楽の前面に出過ぎたショスタコの名前を何度も意識せずにはいられない。ツィクルス全体をロマーン(長編小説)と捉えるならば、第8番はノヴェレ(短編小説)だ。この曲に登場する主題は、今までの作曲者自身の作品からの引用が随所に散りばめられている。いわばこの「ノヴェレ」が、「ロマーン」全体を解き明かす鍵ともなっているのではないか、と想像してしまう。第4楽章では、張り詰めた緊張感が持続する中で、美しいチェロの旋律が高音で静かに弾かれた。藤森氏のソロは嵐の吹き荒れる谷間に人知れず咲く花を思わせるような、はかない響きで、天上の調べを聴く心地だった。
ところで今回の演奏会のプログラムノートに林光氏は、こう書いている。「『弦楽四重奏曲第8番』をショスタコーヴィチは三日で作曲した。こういうことをするから、いけないのだ。苦しんでもがいて、腹から絞り出すように創作をするのが、信用されるんだ」――この言葉は、ショスタコを語っているようでいて、林氏自身の音楽を期せずして語っている。≪原爆小景≫が実に半世紀近くもの歳月をかけて完成されていることを思い返すならば、「腹から絞り出すように創作する」というのは彼自身の音楽に対する姿勢の表明でもある。同時に、困難な時代を生き抜き苦しみながらも三日で弦楽四重奏曲一曲を完成させてしまったショスタコに対する深い愛着を述べたものとも言えるだろう。
第9番変ホ長調(作品117)は聴いているだけで面白い。何度も繰り返されるリズムが楽しい。特に第5楽章は圧巻だった。あまりの激しさに驚いた。モルゴーアの四人はひたすら力任せに押し切っていくが、もはや何が行われているのか分からないほどだ。長大に連なる八分音符はテープを早送りしているかのようだが、やがて同じリズムを執拗に刻み続けることで輪郭がはっきりと浮き出てくる。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の最後みたいな、ディオニュソス的な力強さですっかり圧倒されてしまった。
なおアンコールは、3年前に発見されたばかりというショスタコの未完の弦楽四重奏曲(いわゆる「幻の9番」)が演奏された。とても聴きやすく時代を感じさせないポップな雰囲気だった。5回目の演奏会のアンコールでも演奏されたので後にもう一度触れたい。
昼の部は4時前には終わってしまうので、6時半の夜の演奏会までは少し手持ち無沙汰になる。食事をしたりセガフレドでカプチーノを飲んだり、風に吹かれて運河を歩いていた。
さて6時半からの第4回演奏会。
第10番変イ長調(作品118)もとても聴きやすい。第2楽章の激しさに圧倒されるし、第3楽章は叙情的なチェロの旋律が美しい。ゆったりとしたアダージョであるのに、メロディーをフォルテッシモで激しく歌うあたりが面白いのだ。メゾフォルテだったら感傷的だが、激しく哀しさを強調するところに迫力がある。第4楽章のかわいらしいテーマは耳に残る。昔のファミコン音楽みたいなチープさ加減に意外性があるからなのか、やたら耳から離れない音楽だ。
この日の演奏会で取り上げられた曲目は、全般的にどれも聴きやすい。60年代に書かれた9番、10番や12番は音楽に勢いもあって、親しみやすく思われる。第11番ヘ短調(作品122)は7つの短い楽章から出来ているが、音楽の変化が速く、同じモティーフが繰り返されるので聴きやすい。第4楽章のコラールでは、第1ヴァイオリンが無窮に動き回る中を、他の三人が激しく和音をかき鳴らしたのが印象的だった。
最後に演奏された第12番変ニ長調(作品133)は、全15曲のツィクルスの中でももっとも充実した密度の濃い内容だったと思う。狭い音域で幾重にも絡み合う丁々発止のやり取りもよかったし、チェロの安定したソロも聴かせる演奏だった。しかし何より素晴らしかったのは、第1ヴァイオリンのピチカートだった。「張り詰めた糸」のような、という形容は、まさにこういう状態のことを指しているのではないだろうか。他の三人が弓を置き、無音になったところから第1ヴァイオリンの荒井氏は、ただひとり、高音のCとGの音を鋭く手ではじく。決然とした意志が漲っている。ピチカートの単音が間をおいていくつか発音されるとき、ホールの空間の広さが意識されてくる。それから他の楽器が加わり緊張は和らぐが、音楽の流れは元には戻らない。上昇する音型が勢いを得て天を衝く。また2番や3番のような「戦争」状態になり、「タタタタタン」というリズムが特徴的に繰り返される。つばを飲むのも忘れて、うねりに身を任せた。かっこよすぎる終わり方。聴衆の反応もこれまでで一番良かった。
アンコールはヴァイオリン協奏曲第2番の第2楽章が演奏された。今回唯一の、荒井氏による書き下ろしのアレンジだという。ステージから聴衆に語りかけた荒井氏は、さらに「あと二時間もすればショスタコーヴィチの生誕100年ですから、ご家庭でどうぞ(お祝いください)」と付け加えるのを忘れなかった。本当にショスタコが好きなのだろうと思う。
稿をもう一度改めて、27日の最終回について書くことにしたい。
公演に関する情報
〈第一生命ホール5周年記念コンサート クァルテット・ウェンズデイ・スペシャル〉
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅲ
日時: 2006年9月24日(日)14:00開演
出演者:モルゴーア・クァルテット
[荒井英治/戸澤哲夫(Vn)、小野富士(Va)、藤森亮一(Vc)]
演奏曲:
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第7番嬰へ短調作品108、
同第8番ハ短調作品110、同第9番変ホ長調作品117
〈第一生命ホール5周年記念コンサート クァルテット・ウェンズデイ・スペシャル〉
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅳ
日時: 2006年9月24日(日)18:30開演
出演者:モルゴーア・クァルテット
[荒井英治/戸澤哲夫(Vn)、小野富士(Va)、藤森亮一(Vc)]
演奏曲:
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第10番変イ長調作品118、
同第11番へ短調作品122、同第12番変ニ長調作品133