モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅴ
報告:齋藤健治/月島在住・編集者・TANサポーター/1階10列9番
投稿日:2006.10.7
――計5ステージに及んだ「ショスタコーヴィッチ弦楽四重奏曲全曲演奏会」。すべての舞台がはね,アーティスト・聴衆・スタッフを交えてのレセプションをしめくくるSQWディレクターの謝辞の中での言葉である。
前段は次のとおり。
「前世紀は2つの大きな戦争がありました。ひどい時代でした。お集まりの皆さんのほとんどが,この世紀にお生まれのことと思います。しかし,モルゴーア・クァルテットの演奏を聴いている中で,"20世紀を許してもいいのではないか"と思えました」
たった一晩聴いただけに過ぎないが,この言葉には至極共感を覚えた。
なぜなら,4本の弦の調べからは,20世紀に起こったある一定の制約,そのもとで最大限に己のもつ才能を極限まで伝えようとする意思――一人の人間としての生き方と言ってもいいかもしれない――が感じられたからである。
楽譜には,こんな指定があるのだろうか。
たとえば,「思想的抑圧下における人間の喜びを表現せよ」,または,「『森の歌』の評価による,あなたの思いをピチカートで」。......そんなものが仮にあったとしても,作品発表時に書くことはありえなかっただろう,記譜上には。
大事なことは,20世紀という難しい時代に,この一人の「才能」を勝ち得たことだ。それを,モルゴーアQの,ある時は感情のたけり,あるいは諦念,そして微かな希望への期待,等々の感情の襞を自在に表現する巧みな演奏によって感じる。
SQWディレクターはこう続ける。
「"ベートーヴェンを持っている","モーツァルトを持っている"等々の語り口があります。しかし,いま,わたくしたちは,モルゴーアQを通じて,"ショスタコーヴィッチ"を,確かに,持っている,のです」
この最終日は,400人を超える聴衆が集まっていたのだった。5ステージ中,最高とのこと。
* * *
1階の席に座る。見渡すと,おおいなる人の流れ。「土日の公演でモルゴーアは盛り上がっています」とTAN広報からメールをいただいて駆けつけた次第ではあるが,その言葉を実感する。
和装の令夫人あれば,「これッ! この前の『宝塚』でも履いていったんだよォ」と靴を見せ合う女子学生おぼしき2人組もあれば,トイレでは「......ううう。今日は13番からか......。ううう。......」と呟く恐らくは弦楽四重奏に入れ込んで幾星霜なりし初老の男性もあれば,はたまた,デイパックを背負い込んで,演奏中は靴を脱いでお寛ぎの状態ながらもステージの動きにしっかり反応しているご老人あり,目を転ずれば,髪をポニーテールに結わえ白く暖かそうな服をまといながらもキリッとした身のこなしで舞台に対峙している若い女性など,ユニークなオーディエンスを見ることができる。
* * *
演奏の様子に移る。
本日のプログラムは第13番,14番,休憩を挟みクライマックスの第15番。アンコールは2曲。チェロソナタop.40第1楽章第2主題。そして第9番op.113。
ヴィオラから始まる第13番変ロ短調op.138は,1stヴァイオリンの提示を機に,サウンドが溶け合い,離れ,また溶け合うという様相を呈す。第2楽章途中ではチェロのランニングベースをフューチャー。第3楽章ではそのチェロの重厚さが押し出されるとともに,最後はヴィオラによる幕引き。全体にメロディの単調さがかえって薄暗がりの部屋に佇む知識人の思想の過程を映し出しているよう。
続く第14番嬰ヘ長調op.142は1stヴァイオリンの軽やかな出だし。しかし,20世紀の人は,やはり「屈折」するのである。否,時代に向き合うほどに屈折するのである。
* * *
1971年の五木寛之の小説,「浅の川暮色」を例にとる。ショスタコーヴィッチを作品そのものよりも,いかに「思想的道具」として表現しているかが見て取れるのではないだろうか。(注 五木寛之は共産党下における文学者の苦悩と職業的・心情的との葛藤を描いた『蒼ざめた馬を見よ』で1967年直木賞受賞)。
「あの頃おれはいくつだったろう。......下宿の床の間に『ドストエフスキー全集』をわざわざ乱雑に積み重ねたり、......洋裁学校の生徒が集まる喫茶店にショスタコーヴィッチの〈森の歌〉のレコードをあずけておいて掛けさせたり」
また,「歌は世につれ,世は歌につれ」という名文句がある。しかし,「『歌は世につれ』ることはあっても,けっして『世は歌につれ』ることはありません」と言うのは,パッヘルベル「カノン」にインスパイアされ名曲「クリスマス・イブ」を書いたポピュラー音楽作曲家の大御所・山下達郎氏である。
また多大なるファンをもつ『のだめカンタービレ』では,モーツァルトのテンポを「車じゃないんだよ! この時代は。馬車!」なる科白もあるが,ことほどさように,「歌は世につれる」のではないだろうか(だからこそ音楽史を学ぶ意義もあるのだろう)。
しかし,それを踏まえて後世の人に受け継がれるのは,作品に込められた意思ではないだろうか。それも五線譜という制限の中で。
ショスタコーヴィッチは「何を伝えたかったのか?」――そんな所に興味を覚え,かつ,それをモルゴーアQのテクニックが喚起するのである。音階中に挟み込まれる一つの不協的な音符,その音符がもたらすテーゼからの展開――さぞかし,「一つの音符」をめぐって,クァルテットの中で議論が起こり,それを基にしたアンサンブルが繰り広げられたのではないかと推察される。
それを味わったのが第3楽章である。
1stヴァイオリンのピチカートから始まり,恐らくは人間が心に浮かべる感情が,伝えられる。
曰く,苦。痛。悲。哀。愛。恋。鬱。歓。醜。美。青。赤。明。暗。爽。鳥。猫。犬。野獣。鬼。天使......。人の心の襞に巣くう感情が,猫の目のようにクルクル,変わる。
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そして,第15番変ホ短調op.144へ。
第1楽章は,中音と低音がほどよくブレンドしていきながら,第2楽章セレナードへと続き,熱いインテルメッツオを越えて,第4楽章ノクターンは続く第5楽章の葬送行進曲へ。チェロが重々しく,ヴァイオリンは高らかに。
しかし,これで終わらない。
第6楽章エピローグでは随所にほどこされるトレモロ・トリルの連続が,「生と死」のゆらぎを我が身へいざなう。
これで終わりだ。しかし終わりたく,ない。作曲家も,アーティストも,観客も。のたうち回る。
* * *
最後の一音。
ヴィオラは余韻を隠せない。チェロは目を閉じたまま。
この間,舞台も客席も,じっと身じろぎしない。
この間,恐らくは数十秒,実感としては数分。やおら1stヴァイオリンが手をあげる。
割れんばかりの拍手。
耳が痛いほど。ほんとうに痛い。1階席で聴くのは久しぶりだったけれど,こんなにもこのホールは響くのだっけ......。四方八方から音がつんざく。
そうだ,この響きは,オープンまもない頃の,若々しい響きだ――。そんなことも感じた。
* * *
20世紀,とある国が前提とした「社会主義レアリスム」下の作曲家,というイメージで曲を聴いてしまうのは,ぬぐおうとしてもぬぐえない。しかし,それをおいてもなお,ショスタコーヴィッチにつき合っていきたいと思う。
「次の世紀も,またその次の世紀も,ショスタコーヴィッチが生きる。それは演奏家の力によるものです」(SQWディレクターのレセプションにおける謝辞より)
この21世紀に,確かに,モルゴーアによって,ショスタコーヴィッチは確かに,ステージに,現れた。一人の人間として。
そんなことを,フランス共産党葬として埋葬された一作家を大学の卒論テーマとして選びながらも,一人の詩人として好きだった学徒は感じた。
「エルザよ 分別を越えた狂気の歌
けっして 終ることのない 歌
五月の月よりも もっと甘い
恋の歌 十月の歌
はてしない網のような歌」(大島博光訳)
ここに「社会主義レアリスム」があるのだろうか。そして,モルゴーアが奏でるショスタコーヴィッチにも。
公演に関する情報
〈第一生命ホール5周年記念コンサート クァルテット・ウェンズデイ・スペシャル〉
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅴ
日時: 2006年9月27日(水)19:00開演
出演者:モルゴーア・クァルテット
[荒井英治/戸澤哲夫(Vn)、小野富士(Va)、藤森亮一(Vc)]
演奏曲:
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第13番変ロ短調作品138、
同第14番嬰ヘ長調作品142、同第15番変ホ短調作品144