林光・東混 八月のまつり31
作品と言う媒介を通して後世の人に感情を間接的にも経験させ、当時の記憶を「残す」。
それが作品の意図ではなかろうか。
しがみつく様にしつこい暑さが一休みした日の昼下がり、当日夜の「八月のまつり」にモニターとしてお誘いを頂いた瞬間、自分の心の中に躊躇が無かったと言えば嘘になる。この「八月のまつり」の恒例ともいえる、林光氏の『原爆小景』を聴くことにどこか抵抗感を感じていた事は否めない。
先の戦争の終結から65年、日本は、(様々な捉え方はあるにせよ)対外的な戦争を経験せずに復興・発展から停滞を経て今に至る。その中で育ってきた小生の世代は、戦争経験世代からすると三世代、つまり自分を直接育てた親すらも戦争を経験していない。
その小生が家庭や諸教育機関で受けてきた戦争や被爆国としての教育は、「知ることが義務」という体裁を取り、原爆の悲惨さ、殺しあう事の哀しさなどを、絵画や映像、文学など様々な形で小生達に知識として「知ることを求めて」きた。止める事の出来ない時間軸の中で、遠く離れつつある消せない事実を学ぶことが「義務」教育だったのである。幸福な事に平和を享受している小生は、それが故に自国の戦争を過去の事象としてしか捉える事の出来ない中で、その悲惨さ・哀しさを知るのは幼い頃から心を痛ませる「義務」だった。
原爆小景を聴く事は「義務」を再び体験する事であり、それを忌諱する芽が自分の心の中に生えたのは否めない事実だが、その芽を摘み取り、ホールへと足を向けたのは、過去を知り記憶を「残す」ことが我々の責務であると言い聞かすもう一人の自分もいたから(そのもう一人の自分を育てることが、戦争教育の一環だったのかもしれないが)。
芸術のどの分野であっても、戦争や原爆を題材に扱った作品は、その表現で求めている物は「美」ではないような気がする。作品の目的は、その表現形態を介して、そこで起こった事実や表現者の中に湧き起こった感情を「残す」こと。恐れ・苦しみ・悲しみ・痛み・怒り・諦め・絶望・渇望...、作品に接した時に湧き起こる感情は、作者の意図したものだろう。作品と言う媒介を通して後世の人に感情を間接的にも経験させ、当時の記憶を「残す」。それが作品の意図ではなかろうか。
この日も、「原爆小景」の中で歌われる死の淵に落ちつつある人の声は、当時の凄惨さを語りかけ、聴く者に心苦しいまでの感情喚起を促した。体が焼かれた痛み、一瞬の間に起こった殺戮への疑問、生への執着と諦観、水への渇望、そして永久のみどりへの希望。原民喜が書き綴り、林光が曲を付けた作品は、強く、容赦なく訴えかけてきた。その意味で、演奏は生々しいまでにインパクトのあるものであった。
演奏会はその後、林光氏の新作などに続き、最後は日本のおなじみの歌曲で締めをくくった。プログラムとして曲が進むにつれ、曲としての興味深さや美しさが先行するようになり、そして最後には耳慣れた曲で終り、会場としては「やっぱり歌はいいね」という雰囲気で終演を迎えた。
しかし、個人としては「原爆小景」で受けたインパクトが徐々に薄れていき、演奏会が終わった時に何が「残った」かが曖昧になってしまったという印象は拭えない。
一つ一つの作品は素晴らしいものだったし、貴重な体験をさせてもらえた。だが、小生の思う曲の主眼が「残される」ものだったかどうかは分からないまま帰路につく事になった。
殺戮兵器として生まれた核兵器は、威嚇道具、そして抑止力として利用されながら、現在では政治的プロパガンダの材料にまで使われるに至った(意図の有無に関わらず、それによってノーベル平和賞が動いたのも1回ではない)。どのように利用されようが、物質として核兵器が残っている世の中で、唯一の被爆国である日本は何を「残す」のか。
そんな事を考えさせられる演奏会だった。
公演に関する情報
〈TAN's Amici Concert〉
林光・東混 八月のまつり31
日時: 2010年8月9日(月)19:00開演
出演者:林光(指揮) 東京混声合唱団 寺嶋陸也(ピアノ) 古賀満平(照明)
演奏曲:
林光:原爆小景(原民喜 詩)
水ヲ下サイ (1958)/ 日ノ暮レチカク (1971)/ 夜 (1971)/ 永遠のみどり (2001)
林光:花靱-閑吟集によるコンチェルト-新作初演-「人の姿は花靱」、「優しさうで、逢うたり
や嘘の皮靱」
林光(作曲)木島始(詩):混声合唱、ピアノ、一対の笛のための「鳥のうた(1982)」 春うらら/
ゆきかう渡り鳥/空の文字消える名まえ/見守るつらさ/啄まれた
いひと/すばらしい嘘/おとずれ待ち/たよれる星/たねは旅する