クラシックはじめのいっぽ プレ企画1 ヴァイオリン編
報告:音楽ジャーナリスト 渡辺和2階R1列40番
投稿日:2007.01.30
お昼前の演奏会というもの
ふと気付くと、もう11時を過ぎている。本日の「はじめの一歩」シリーズ・プレコンサートは、運河向こうの第一生命ホールでの開演は11時半なのである。慌ててチャリチャリと自転車を転がし、駐車禁止だけどズラリと銀輪が並ぶトリトン・ブリッジの横に放り出し、エスカレーターへ。昼前のトリトンスクエアのビジネス棟ロビーは、ランチ販売の屋台が並び始め、夕方に第一生命ホールに向かうときにはまるで感じられない巨大オフィスビルの昼時気分が横溢している。現役サラリーマンのエネルギーと、若いOLたちの華やかさ。夕方のひけどきとはまるで違う場所だ。そんな風景を眺めながら、なんとか間に合ったとエスカレーターを昇っていると、顔なじみのTANサポーターさんがやってくる。ロビーコンサートじゃないきちんとした演奏会がこんな時間にあるなんて、調子が狂っちゃいそう、と笑っている。
確かにその通り。とはいえ、このような「平日午前中のクラシック音楽定期演奏会」は、アメリカのオーケストラでは珍しいことではない。都市インフラとしてのしっかりした基盤を有するアメリカのメイジャーオーケストラは、ひとつの定期演奏会で総計3回から4回の公演を行うのが普通。そのうちのひとつが、意図的に平日午前中から昼間にかけての時間帯に配されることが多い。例えば、筆者がミネアポリスに滞在中の先週木曜日にも、かつて大植英次が音楽監督を務めていたミネソタ管弦楽団は、午前11時からの定期演奏会を行っていた。演目は翌日金曜日や土曜日とまるで同じ、フルコンサートである。ボストン響やNYフィルにも同じような定期がある。ご隠居や夫人たち、養老院からバスで乗り付ける団体客、黄色いスクールバスの子供達など、この時間帯でないとコンサートホールまで来られない音楽愛好家は沢山いるのだ。
日本でも、戦後の娯楽のない時代に労音などクラシック音楽鑑賞団体が盛況だった頃は、平日昼間の公演はかなりあった。が、それ以降は、昼間演奏会がシリーズ化されてた例は殆どない。歌舞伎やら商業演劇など主婦層が大事な観客となっている業界では当たり前の公演形態なのだが、聴衆のマーケッティングは二の次、弾く側の事情が優先される芸術至上主義の日本のクラシック音楽界では、どうも馴染まない形態だったようだ。20年前にオープンした当時のカザルスホールで「ティータイムコンサート」という平日午後2時の人気演奏会シリーズが10年ほど続いた例があるくらい。津田ホールでも90年代後半から年間に3回ほど昼間の本格的な室内楽シリーズが行われている。クラシック音楽にも意識的にマーケティングの視点が導入されるようになった21世紀になると、ホール(オーケストラが、ではないのが興味深い)が新客層開拓の手段として主催公演を平日昼に行うことも始まり、オペラシティの東フィル昼定期、浜離宮朝日ホールのランチタイムのソリストシリーズなどが行われ始めている。
第一生命ホールとしても、2001年秋からのオープニングシリーズの中に「はじめの一歩」という新規聴衆開拓シリーズが用意され、昼間の入門編室内楽シリーズに向けた種は蒔かれていた。様々な地域活動や昼間のロビーコンサートでの聴衆の動きを5年間に亘って眺め、「ライフサイクルコンサート」という聴衆層をハッキリ絞り込んだシリーズのひとつとして本格的に始動することになったのは喜ばしい。
さて、11時半である。客席は半分ほどだろうか。夜のコンサートでもお馴染みの顔ぶれもいれば、見かけない顔も。想像していたよりも若い主婦層が少なかったのは、今後の課題かもしれない。
東京中の室内楽ホールに搭乗しているヴァイオリンの矢部達哉氏だが、考えてみればこのホールへの搭乗は始めてだ。若いピアニストを伴って登場、まずはモーツァルトのト長調ソナタである。昨今流行の古楽系の関心とは異なる、あくまでもモダンなモーツァルト。「言葉」に拘りすぎた意図的なフレージングばかり耳に残る音楽ではなく、旋律楽器としてのヴァイオリンの特徴を素直に生かした音楽である。とはいえヴァイオリンばかりが際立たないのは、楽譜に印される「ヴァイオリンのオブリガート付きピアノソナタ」のバランスを重視した判断なのだろう。ピアノが完全に主導権を握ってしまっても良い音楽だが、そこまではしないのは、若いピアニスト側の配慮なのかしら。
続くフォーレの小品では、微妙なポルタメントとも言えぬ上品なポルタメントと、線によるヴァイオリンの音色の違いをはっきり際立たせるような繊細な音楽。「タイスの瞑想曲」も、余韻を大切にしたもののあはれの音楽だ。バリバリ弾いて抜けるタイプとはひと味違う、矢部達哉のソリストとしての特徴をはっきりさえてくれる。
ここで、「おはようございます」と矢部氏からの挨拶。こんな早い時間の演奏会は珍しい、誰もが一度は耳にしたことがある、ヴァイオリンの中で最も美しく、最も知られている曲を選んだ。ヴァイオリンは基本的には旋律楽器だけど、最後には技巧を味わっていただける曲を選曲した、等々。続くベートーヴェンの「春」では楽章の間に拍手を下さっても結構です、と述べたあとに、お気に召したら最後に大きな拍手を、と笑いながら付け加えた。楽章の間に拍手をするな、と強要しない姿は、ある種の自信なのかしら。
ヴァイオリンの歌に、ピアノの左手の動きが明快なバスを付けていく。プログラム最後のラヴェル作「ツィガーヌ」も、やはりこれ見よがしの音楽ではなかった。アンコールには、弱音器を付けた「亜麻色の髪の乙女」。盛り上げて終わるのじゃあなくて、ホールの中に消えていく余韻を味わう音楽だったのは、いかにも矢部氏らしい。終演は12時37分。総計1時間と少しの音楽だった。
これにブラームスのト長調ソナタでもあれば立派な一晩分ですね、と終演直後の矢部氏に声をかけると、応えて「長くないコンサートに見えるでしょ。でも、途中に休憩なしでこれだけの曲をやるから、まるでマーラーの6番を弾いたくらいの大変さなんですと」とのこと。なるほど、そりゃそうだろう。
終演後のロビーでは、明るい冬の湾岸地区を眺め、名残惜しそうな聴衆の姿が目立った。エスカレーターの下では、まだランチ弁当屋台が軒を並べている。さてと、なにを買って帰ろうかしら。今日はまだ長い。
公演に関する情報
第一生命ホール5周年記念コンサート
〈ライフサイクルコンサート#19〉
クラシックはじめのいっぽ プレ企画1 ヴァイオリン編
日時: 2007年1月25日(木)11:30開演
出演者:矢部達哉(ヴァイオリン)、安部可菜子(ピアノ)
演奏曲:
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第25番ト長調K.301
フォーレ:夢のあとに
マスネ:タイスの瞑想曲
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調Op.24「春」
ラヴェル:ツィガーヌ