モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅰ&Ⅱ
ドストエフスキーの長編小説を一気に読破するかのような壮大な演奏会だ。全15曲というショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲ツィクルスが、9月23日の昼と夜、24日の昼と夜、27日の夜の計5回に行われた。モルゴーア・クァルテットによるショスタコ全曲は3度目だという。前回のツィクルスが2年半かけて全曲を演奏するという息の長い企画であったことを考えてみると、5日間で5回の演奏会という今回のツィクルスが、いかに大変なプログラムであるか察することができよう。
TANの「かわら版」6月号には、この演奏会の特集があり、コピーライターの阿南一徳氏による紹介文とインタビューが掲載されている。その中で「聴きに行くのではなく、一緒に音楽と戦うために出向く5回の演奏会。参加しませんか?」と阿南氏が書いていたのを、行く前は訝しく思ったものだけれど、聴き終えて納得した。演奏者だけではなく、全曲を聴き通すとなると、聴衆にも集中力と忍耐が必要になるからだ。長い間じっと聴いていると腰も痛くなる。しかし私たち聴衆が真剣に演奏に耳を澄ますからこそ、演奏者もその姿勢に応えようとして、より良い音楽が生み出される。第5回演奏会終演後のレセプションで、第1ヴァイオリンの荒井氏は、「もはや音楽全体というよりも一音一音を追うのに必死でした。じっと聴いてくださっているお客さんを見ていると、それに応えようという気持ちになって勇気付けられました」という趣旨のスピーチをしていたが、まさに今回のツィクルスは、弾き手と聴き手の双方が一緒に作り上げていく演奏会であったのだ。
後にも触れるが、ショスタコのクァルテットは難解には違いないが、聴くポイントを押さえれば、意外に聴きやすい音楽でもある。静かに沈み込んでいくピアニッシモも聴きどころだが、何をやっているかよく分からないようなところもある。そうかと思えば、音楽が動き始めて、若芽が次々と吹き出すように生き生きしたり、フォルテッシモで弾き散らしながら「ヴァイオリン2挺VSヴィオラ」みたいな手に汗握る「戦争」状態になったりもするから面白い。
弦楽四重奏曲を個別に1曲ずつ聴くだけではなく、今回のようなツィクルス形式だと作曲順に演奏を聴き比べられるのが何とも贅沢な楽しみになる。林光氏がプログラムノートに書いている通り、ショスタコーヴィチは調性の異なる24曲の弦楽四重奏曲集を作曲する意図があったらしい。15曲の調性はそれぞれ違っているし、バッハの≪平均律クラヴィーア曲集≫のように第1番はハ長調から始まっていることも、その想像を深めることだろう。冒頭にドストエフスキーのような壮大さと書いたけれども、ショスタコの弦楽四重奏曲は15曲を通して連関性があるために、短編小説群を読み進めていくという感覚よりは、大部の長編小説を1章ごとにしおりを挟みつつ腰を据えて読んでいくという感覚に近い。1曲ずつを切り取って聴くのも楽しいが、40年近くの長い期間に渡って紡がれた15曲もの弦楽四重奏曲を通して聴くならば、変わりゆく音楽の中に変わらずも留まり続ける、「通し糸」としてのショスタコーヴィチの存在に、最後には行き着くことになる。生誕100周年という節目の年に、しかも9月25日という誕生日を挟みつつ、ショスタコとは何だったのだろうか、あるいは旧ソ連邦とは何だったのだろうか、と考える良いきっかけにもなったかもしれないのだ。
さて、第1回の演奏会は23日午後2時から始まった。晴れてはいるが風がとても強い日である。運河沿いに歩いていると、トリトン・スクウェアの広場ではお祭りとバザーが開かれていて楽しそうだ。屋形船も広場に横付けされていて、子供たちを乗せて運航している。休日のお昼は清々しい。
第1番ハ長調(作品49)の第1楽章は、テンポも音量も抑え気味に始まり、終楽章でエネルギーが発散されていくというような演奏だった。ヴィブラートをあまりかけないように弾いていく第1ヴァイオリンの荒井氏の音色は禁欲的であったし、第2楽章でヴィオラの小野氏が美しいソロを演奏するそばで第2ヴァオリン戸澤氏が鋭くピチカートで合いの手を入れる音色の鋭さも良かった。
第2番イ長調(作品68)は、初めに5度の和音が際立っているから、第1番に慣れた耳には少し異質な音楽に聴こえてしまう。心も仕切り直して、拍手によっていったん「しおり」を挟んだ物語は、「第2章」へと舞台を移す。音楽の大仰な「身振りの大きさ」にも次第に慣れていき、いつのまにかモルゴーアの絶妙な語り口に引き込まれていくようだ。第1ヴァイオリンがレチタティーヴォ風の旋律を朗唱する第2楽章では、他の三人がひたすらに音量を抑えたピアニッシモの響きが美しかった。第4楽章にはロシア民謡風のヴィオラの旋律があるが、この変奏曲のクライマックスにはハラハラさせられた。「ヴァイオリン2挺VSヴィオラ」で戦争をしているかのような迫力。チェロの藤森氏は中立的な審判者として振る舞い、伴奏に興じているかと思いきや、ロ長調へ転調するやいなや、チェロは勝利の凱歌を高らかに歌い上げる。その旋律を第1ヴァイオリンが受け継いでいくから、ああ勝ったのはヴァイオリン・チームなのだな、と思った。ところが強奏のさなか、最後の最後に「レ-ファ♯-ラ-レ-ファ♯-ラ-シ-ド」と、一足飛びに階段を駆け上がっていくのはヴィオラなのである。最後の勝者となって高みへ昇っていく小野氏のヴィオラの力強さは圧巻だった。幕切れまで結末が分からない推理小説のような面白さがここにはある。
休憩後に第3番ヘ長調(作品73)。軽快な第1楽章が始まるが、モルゴーアの四人は追い詰めるように楽章末尾にテンポを速めていき、緊張感も高まる。第5楽章は、冒頭のチェロの旋律が増4度、増5度と連なるため、不気味でもののけじみているが、荒井氏のヴァイオリンからは少女が切なく身もだえするような音色が聴こえてきたり、第2番みたいな「戦争」にもなる。しかし最後には張り詰めた緊張感の中、静かなピアニッシモのかすかな和音を鳴らしながら第1ヴァイオリンがゆっくり沈みこんで消えていく。弓が弦から離れたときの静謐さはたとえようもなく無言の充足感に溢れていた。アンコールでは、交響曲第5番第3楽章のアレンジが演奏された。
さらに同じ日の夕刻、午後6時半から第2回の演奏会も開かれた。
第4番ニ長調(作品83)は感傷的な第2楽章が美しい。まるでメンデルスゾーンでも聴いているような親しみやすさだ。荒井氏のヴァイオリンは徐々にヴォルテージを高めていき、高音の8分音符と3連符が交錯する旋律を、粘るように精一杯レガートで歌っていたのが印象的だ。第5番変ロ長調(作品92)では「ファ-ファ♯-ソ」と半音階進行の3音を上げ弓でヴァイオリンが弾き切ったり、曲想が激しくなるにつれチェロの藤森氏は足でリズムを取ったりと、興奮の高まりが見て取れる演奏で楽しめた。第6番ト長調(作品101)も第3番と同じように、瞑想するように静かに曲が閉じられていく。アンコールは、≪ムツェンスク郡のマクベス夫人≫から<カテリーナのアリア>のアレンジが演奏された。弱音器を付けて響かせる、くぐもった響きが演奏会の末尾にはふさわしく思われた。
一日で昼と夜の二回、演奏会を聴くだけでも少し疲れを感じてしまったものの、モルゴーアの四人の演奏に、乱れたところがまるで見られなかったことにとても驚いた。何という集中力だろう。昼よりも夜の演奏で、響きはますます透明に澄んでいくように思われた。
長くなったので、いったん稿を改めて、3回目以降の演奏会をレポートしよう。
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅲ&Ⅳレポートはこちら
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅴレポートはこちら
公演に関する情報
〈第一生命ホール5周年記念コンサート クァルテット・ウェンズデイ・スペシャル〉
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅰ
日時: 2006年9月23日(土・祝)14:00開演
出演者:モルゴーア・クァルテット
[荒井英治/戸澤哲夫(Vn)、小野富士(Va)、藤森亮一(Vc)]
演奏曲:
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第1番ハ長調作品49、
同第2番イ長調作品68、同第3番ヘ長調作品73
〈第一生命ホール5周年記念コンサート クァルテット・ウェンズデイ・スペシャル〉
モルゴーア・クァルテット
~ショスタコーヴィチ生誕100年記念
ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全曲演奏会Ⅱ
日時: 2006年9月23日(土・祝)18:30開演
出演者:モルゴーア・クァルテット
[荒井英治/戸澤哲夫(Vn)、小野富士(Va)、藤森亮一(Vc)]
演奏曲:
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第4番ニ長調作品83、
同第5番変ロ長調作品92、同第6番ト長調作品101