林光・東混 八月のまつり28
或る日ふと、人生って意外に短いのだと気付く。あと何回夏を迎えることが出来るのだろう。第一の人生が終ろうとする節目のこの夏、是非ともこのコンサートを聴かなければとの思いに駆られた。
初めて『水ヲ下サイ』の名を耳にしたのは音楽大学の学生の時だった。合唱指導の先生が雑談の中で何気なく話されたこの曲を演奏した時のこと、『客席のあちこちで啜り泣いているんだ・・』それが記憶に残った。それから40年、何時か聴こうと思いながら実現しなかったのは、曲の持つそれほどのメッセージを受け取る自信がなかったからとも言える。今日もまだ臆病だった。音楽として聴こう、私は日本語がわからない異国人なのだと自分に言い聞かせつつコンサートに臨んだ。
演奏はしっかりとした声で淡々と『水ヲ下サイ』と歌っていた。私は耳を凝らして歌詞を聴こうとしていた。熱に灼かれて水を求める人達の口元に耳を近付け、『水ヲ下サイ』の後に続く言葉を聴こうとしていた。美しい音楽だったが、そこにあるのはただ音楽だけではなかった。水を求める人達の息遣いがホールに充満した。
3年前に亡くなった母の最期の言葉は『水が飲みたい』だった。私は看護師さんに言われた通り、ガーゼを水に浸して口の中を湿らせただけだった。・・・思いっきりごくごくと飲ませてあげれば良かった、お母さん!・・・ふと我に返るともう2曲目が始まるところだった。
第2曲『日ノ暮レチカク』ではフレーズの終りが重なってわーん わーん わーん とこだまのように聴こえる合唱ならでの表現が強く印象に残る。広い場所に居て叫んでいるのだが還って来るのは幾重にも響いてこだまする自分の声だけ、・・そんな情景が浮かんで来る。
第3曲『夜』ではリズミカルにスピード感さえ伴って進む歌唱によって、凄惨さは生々しくなく無機的だ。
終曲となる2001年の作『永遠のみどり』は力強いユニゾンで始まる。歌う人の表情も明るい。当時、これから百年、広島には草も生えないだろうと言われたということだが、今や広島、長崎両市とも青々とした緑に被われている。何度も現れるユニゾンが、手折やかに見える植物の強い生命力を感じさせる。根を伸ばして水を吸い生き生きと繁った草木は、眠り姫のお城を覆った茨の木のように人間の二度の過ちをもすっかり包み込んでしまっているようだ。
『とこしえの川』は、長崎で被爆した竹山広さんの短歌に作曲したものと、コンサート開始時に林光さんが話された。合唱と寺嶋陸也さんのピアノ、山田百子さんのヴァイオリンにより演奏される。ヴァイオリンは時に悲し気に、時に明るく響く。だが合唱とは決して融け合わないように聴こえた。人間の想いとは相容れないものを表現しているのか・・。
『原爆小景』『とこしえの川』を聴いた後、次の曲への気持の切替が容易には出来なかった。
『中山晋平歌曲集』が始まると、ああ、私は日本人なのだと思い知らされる。歌が体の中に自然にすーっと入って来る。中でも『シャボン玉』は素敵だった。ピアノ伴奏が美しい。ふわふわと宙を漂い、はかなく消えるシャボン玉のようなアルペジオ。アンコールでもう一度演奏された時はさらに澄んだ音だった。若い頃はモーツアルトが好きだったと言う姑も、アルツハイマーという病気を患った晩年にはいつも童謡を口ずさんでいた。苦しい時期があっても楽しかった頃の気持に戻れる童謡は鎮魂歌だ。・・・綺麗な声でしょう、お姑(かあ)さん。並んで聴きたかった。もっと一緒に歌ってあげればよかったね・・。
こんなにも心の内部に働きかけるコンサートを聴いた事があっただろうか。
生きて聴くことが想うこと、死者は生者と共に在ると実感した一夜だった。
そしてステージの上部に星がまたたき、『星めぐりの歌』が歌われる。その静かなリフレインが全ての想いを鎮めてくれる。
最後の拍手が遠のいてもなおしばらく、座席から立ちあがれなかった。
公演に関する情報
〈TAN's Amici Concert〉
林光・東混 八月のまつり28
日時: 2007年8月9日(木)19:00開演
出演者:林光(指揮)、寺嶋陸也(ピアノ)、山田百子(ヴァイオリン)、古賀満平(照明)
演奏曲:
林光:原爆小景(1958/1971/2001 完結版)(原民喜 詩)
<水ヲ下サイ><日ノ暮レチカク><夜><永遠のみどり>
林光:とこしへの川-混声合唱、ヴァイオリン、ピアノのための(2005/2007 完結版・初演)
(竹山広 詩)
林光編曲:四つのイギリス民謡(岩田宏 訳詩):「ハーレッヒの戦士たち」
「グリーンスリーヴス」「ロック・ローモンド」「栄えあれキャムブリア」、他