クラシックはじめのいっぽ プレ企画2 ピアノ編
小山実稚恵は昼間の1時間も夜の厳しさで満たしそして満足させる
前回1月末の「はじめのいっぽ」プレ企画、ヴァイオリンの矢部達哉氏演奏会があんまり素敵だったものだから、今度は我が長屋のお隣りさん、築地魚河岸ご隠居に声をかけてみた。なにしろ夜の9時過ぎには寝ちゃって、筆者が寝ようとする頃には起きて路地の掃除を始めてらっしゃる健全なる佃島住民なのだ。いくら運河筋を歩いてすこしの第一生命ホールだろうが、夜のコンサートにお誘いするわけにはいかぬもの。
冬らしい寒さもないままに梅も咲き、3月になった湾岸の昼前、トリトンスクエア・グランドロビーに向かう大エスカレーターに吹き付ける風は、まだちょっと冷たい。朝潮運河の向こうに林立する高層マンション群を眺めながら、夜の演奏会ではお見受けしないような奥様方が、「海が近いと風が強いわねぇ。まあ、あちらが日本橋の方かしら、ちょっと来ないと東京の田舎者になっちゃうわ」って、カラカラカラと高笑い。こんどはうちのお父さんと一緒に来ましょう、なんて興奮気味に語り合ってらっしゃる。ホント、一緒にいらしてくださいね。魚河岸ご隠居も「昼間なら行ってみましょう」と仰ってたし。隣近所でコンサート、なんかちょっと不思議です。
ホールに入っても、聴衆は圧倒的に奥様ばかり。思いのほか熟年2人連れが見えるのは嬉しいけれど、意外に多いとは言えない数だ。客席を埋める人の数そのものは、かなり入ってるなというくらい。やっぱりピアノのコンサートは敷居が低くなるのかな。1階平戸間まで、きっちりネクタイを締めた老旦那からご挨拶された。ぼーっとしながら「あ、どうも」なんて返しておいて、「誰だっけな、なんて思ったら、あれ、なんとお隣の魚河岸ご隠居じゃあありませんか!」スーツ姿なんて初めて見た。そうか、コンサートホールというところは、佃の老兄さんにきっちりした格好をしなければと思わせるハレの場なんだっけ。
さて、時間となって、小山さんが登場。夜のコンサートと違わぬ白いドレス、考えてみれば、このクラスの人が、客席わずか750のホールで1000円というのは、とっても安いんだろうなぁ。聞くところによれば、小山さん、この演奏会前に「アウトリーチをやってみたい」と申し出られたそうな。そんな活動とは遠そうなイメージのアーティストだけに、逆に「演奏会にあまり来ない人向けの昼間の短いコンサート」に向けた意気込みが感じられる。
とはいうものの、今時の「オリジナル楽器」趣味とは正反対、モダンピアノでしか不可能な柔らかくレガート名バッハの平均律が流れ出すと、そこにあるのは何一つ妥協のない小山実稚恵の世界である。このホールは案外響くのだな、とあらためて確認させられる。
まずは1曲を終え、「こんにちは」とお話。「ピアノが良い」、「ホールですけど教会の感じを。シューマンは子供の無邪気さを。ショパンはピアノの魅力を聴いてください。」
舞台からのお話を終えて安心したのか、そこからはすっかり小山実稚恵のいつものペースとなる。続くバッハのコラールは、クレッシェンドもダイナミックスもロマン派音楽の世界だ。お得意のシューマンは「子供の情景」だって、ちっとも気楽な子供時代の想い出じゃあない。気の抜きどころがまるでない、弾き手ばかりかコンサートホールの中にも緊張を強いる本気の音楽だ。「気楽に音楽を聴いてください」というのじゃあなくて、「これがコンサートホールにわざわざ来ていただいた方にお聴かせする私のホントの気持ちなんですよ」って。第一生命ホールのピアノで高音を綺麗に響かせるシューマン、小品たちの間に拍手をしようとする者など誰もいない。少しは発散される要素があるショパンにしても、完成度の高い、夜の公演となにひとつ違わない音楽たちだ。
こういう緊張感の強い空間だと、かえって客席のゴソゴソ音やら携帯のピープーがとても大きく聞こえるのかしら。筆者の座った席の並び、通路側のレセプショニストの前の半袖シャツでひとりでいらしている男性が、聴衆の騒音や遅刻者の出入りの音に、妙に過敏に反応している。ゆったりした昼なんだからもっと気楽にしましょうや、と声をかけられる雰囲気でなかったのは、小山さんが創ろうとしていた音楽的空間の質そのものにも理由があったろう。なにしろものすごい集中力、「お気楽に過ごしてください」という音楽でなかったことだけは確かなんだから。
こんな緊張感を強いるのは、もしかしたら2時間のフルコンサートでは厳しかったかも。家の中やipodでのながら試聴では絶対に不可能な、ピリッとしたハードコアな音にじっくり向き合うコンサートホールの時間とすれば、昼の60分というのは丁度良いのかもしれない。こんな昼間のコンサートも、ある。
後に仕事が続いていたため慌てて第一生命ホールを離れねばならず、お隣のご隠居がどんな風だったか、会場では確認できなかったのが気がかりだった。翌日、いつもの気楽な格好で顔を合わせた魚河岸ご隠居兄さんは、「いやぁ、あの人はすごいピアニストなんだねぇ、」と、盛んに繰り返しておりました。そう、ホンモノは、たとえそれが食べやすいものではなかろうが、誰にでも凄さが判るものだ。ましてや元築地の目利きならなおさらね。
公演に関する情報
第一生命ホール5周年記念コンサート
〈ライフサイクルコンサート#20〉
クラシックはじめのいっぽ プレ企画2 ピアノ編
日時: 2007年3月1日(木)11:30開演
出演者:小山実稚恵(ピアノ)
演奏曲:
バッハ=ブゾーニ:コラール「われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ」BWV639
バッハ:平均律クラヴィア曲集第2巻より、前奏曲とフーガ イ短調BWV889
シューマン:子供の情景Op.15
ショパン:ノクターン 第2番 変ホ長調 Op.9-2
ショパン:バラード第1番ト短調Op.23
ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ Op.22
ショパン:ポロネーズ第6番 変ホ長調 Op.53「英雄」