クァルテット・エクセルシオ
ラボ・エクセルシオ 世界めぐりvol.6イギリス編
報告:尾花勉/サポーター/一階10列9番
投稿日:2007.02.15
今宵は『ラボ・エクセルシオ、世界めぐりvol6、イギリス編』と銘打った、一寸風変わりとも云える演奏会である。エク(クァルテット・エクセルシオの略称にして愛称)は六年前よりこのシリーズを始め、南半球、北欧、アジア、ロシア、イタリアと世界を音楽で旅をして来た。そして今夜、イギリスを最後の訪問地として、一先ず草鞋を脱ぐ事となる。
拍手に迎えられ、4人の旅人達が姿を表した。その装いは黒が基調だが、清楚な中にも華やかさが漂う。
暫しの沈黙を経て、一曲目、エルガーのホ短調カルテットが少しく影を含む音色で始まった。私には事ある毎に「昔は良かった」と、繰り返す、老人の回顧談を聞いている様で、曲自体は余り関心しなかった。然し、その老人臭を節度あるポルタメントや、美しいピアニッシモ、ボーイングの工夫等で中和させようとする、エクの発意には好感が持てた。
二曲目はブリテン28歳の作品、第一カルテット二長調である。先程のエルガーとは打って変わって、冒頭から『生きるべきか、死ぬべきか』と云うウェルテルの様な、若さ故の葛藤が極度の不協音となって聴いている私の耳を襲う。一楽章での「狂気」、二楽章での「不安」、三楽章の「祈り」......。世界大戦最中という時代背景の違いはあるものの、この曲の中に込められた「内なる声」を、当時の作曲者と略同じ世代であるエクが共感を以って掬そうとしているのが犇々と伝わってくる。特に終楽章での目に見える様なアーティキュレーションは、それを感じさせるには余りあった。
休憩を挟み、最後のデーリアス「去りゆくツバメ」が演奏された。凡ての楽章に付けられた表題、また、全篇に渡る幻想的な雰囲気からもこの曲が後期ロマン派の影響を受けている事が解る。同じくイギリス・ロマン派の詩人ワーズワースを彷彿とさせる自然描写が、エクの持つ『音のパレット』から生み出される驚く程多様な色相を用いて彩られて行く。特にたゆとう様な4楽では
唯、音楽に身を委ねていれば良い、と云う幸福感を久々に満喫出来た。
会場内が、未だ何とも云えない暖かさに包まれている侭、アンコールの、エルガー『愛の挨拶』が演奏された。普段、Vnに依る名旋律として広く膾炙した曲だが、今日はVaの独奏という椿らしい版で、最後迄聴衆を楽しませて呉れた。
内田百鬼園が著した『阿房列車』という名紀行文がある。その中で新潟へ訪れた際、百鬼園先生が地元の若い新聞記者から今回の目的は、と質問を受けた一齣に
「阿房列車の取材ですか」
知らないかと思ったら、そんな事を云い出した。
「それは家に帰って、机の前に坐ってからの事で、今ここでこうして君のお相手をしている事とは丸で関係はない」
「でもそうなのでしょう」
「そうでないと云う必要もないし、そうだと考える筋もない。要するにそんなことは、後の話さ」
「そうですか」
「帰ってからの事だよ」
(内田百鬼園著『阿呆列車』、内田百鬼園集成1、2002年10月発行、筑摩書房、pp307~308)
今夜、凡てのプログラムを聴き終わり、この一節が頭を過った。つまり、エクは単にイギリス音楽の観察文的な演奏ではなく、そのから受けた印象や感取を、エク独自の語法で
イギリスを音楽的に再現したのだと感じたからだ。若しかしたら、これこそVcの大友さんがプログラム内のエッセーで繰り返し述べていた『新しいなにかを作り出す』と云うことなのかな、と思い乍。
公演に関する情報
第一生命ホール5周年記念コンサート
〈クァルテット・ウェンズデイ#53〉
クァルテット・エクセルシオ
ラボ・エクセルシオ 世界めぐりvol.6イギリス編
日時: 2007年1月31日(水)19:15開演
出演者:クァルテット・エクセルシオ
[西野ゆか/山田百子(Vn)、吉田有紀子(Va)、大友肇(Vc)]
演奏曲:
ブリテン:弦楽四重奏曲第1番ニ長調作品25
エルガー:弦楽四重奏曲作品83
ディーリアス:弦楽四重奏曲「去りゆくツバメ」