2008.5
日本音楽集団第191回定期演奏会 ≪管・絃・打 響≫
~大編成アンサンブルの魅力~
最後の曲、「巨火」の演奏は、まさに「序破急」の急のように終った。最後の音が衝撃とともに発して、厚みをもって広がり、余韻を残して消えていった。その緊張感と昂揚感を、演奏者と聴衆は共有し、深い感銘を覚えたはずである。拍手が沸き起こる前の、一瞬の濃厚な沈黙が、そう思わせた。
日本文化は、音の響きや余韻を大切にしてきたといわれる。寺の鐘、ししおどし、水琴窟。いずれも音が鳴ってから消えてゆくまでの、響きの時間を楽しむ。ほんの一瞬の時間を、感性によって何倍にも引き延ばして楽しむ。和楽器は、そんな響きの文化で育まれた。今回の演奏会のテーマが《管・絃・打 響》であるのも、和楽器の響きを大切にしたいとの思いからであろう。
私が、日本音楽集団の演奏を拝聴するのは、今回が初めてであった。それどころか、大編成アンサンブルの和楽器を聴くことも初めてであった。日本舞踊を習っているため、端唄や長唄を聴く機会はあり、また歌舞伎を見に行って、迫力ある大人数の生演奏を聴く機会もあった。そのため、和楽器そのものには驚きを感じない。しかし、西洋クラシックと融合した曲を和楽器で演奏すること、和楽器が指揮者によって調子を合わせていること、そういうスタイルの方に新鮮な驚きを覚えた。邦楽は、基本的にはユニゾンでハーモニーを楽しむものではなく、またテンポも互いに息を合わせることで整えるものだと思っていたからだ。
そんな「邦楽はかくあるべし」という私の固い先入観のせいかもしれないのだが、一曲目の「夷曲・西稜楽」と二曲目の「十七絃と邦楽器群のための協奏曲」には、正直なところあまり入り込めなかった。西洋クラシックの要素が強すぎて、和楽器の持ち味である響きが存分に発揮されていないような気がした。それに比べ、三曲目の「朱輪金鈴」と四曲目の「巨火」は、和音階を多用し、自在な間をとったソロ演奏も組み込んでいて、和楽器の良さを堪能できる曲であった。
三曲目と四曲目を聴いて、私の先入観はすこし崩れた。和楽器を大編成アンサンブルで聴かせるというスタイルは、和楽器のポテンシャルを引き出す新しい方法なのかもしれない。まだ私たちの知らない、和楽器のさまざまな響きのパターンを、このスタイルが導き出してくれる。新たな響きの発見を期待して、次の演奏会にも足を運びたいと思う。
公演に関する情報
〈TAN's Amici Concert〉
日本音楽集団第191回定期演奏会 ≪管・絃・打 響≫
~大編成アンサンブルの魅力~
日時: 2008年5月21日(水)19:00開演
出演者:日本音楽集団
演奏曲:
芝祐靖:夷曲「西陵楽」(ひなぶり・さいりょうらく)
秋岸寛久:十七絃と邦楽器群のための協奏曲(委嘱初演)
十七絃独奏:宮越圭子
長澤勝俊:朱輪金鈴(しゅりんきんれい)
三木稔:巨火(ほて)
クラシックはじめのいっぽvol.5 ~ヴァイオリン&ピアノ~
この数年、東京の音楽ファンのゴールデンウィークは、晴海のお隣、有楽町で開催されるようになった巨大音楽祭に明け暮れるのが定番となりつつある。そんなお祭り騒動が終わった翌日、それも平日水曜日の午前中から演奏会をやるなんて、トリトン・アーツ・ネットワークって主催者はなかなか勇気があることだ。
連休明けなのに、これからがゴールデンウィーク本番みたいな五月晴れ。そんなことを思いながら運河沿いに自転車を走らせ、開演ギリギリに慌てて駆け込んだ第一生命ホールには、意外なことに、お客さんがずいぶんといらっしゃいます。1階はほぼ満員くらい。殆どが奥様たちで、その中に熟年男性がパラパラと混じっている。昼間の三越劇場に紛れ込んだような、ゆったりした空気だ。昨日までの東京国際フォーラムの、お祭りに尻を叩かれるような無理矢理の熱狂はどこへやら。やっと普通の日が帰ってきて、いつもの場所に、いつもの普通のお客さんがいる、って感じかしら。
堀米と児玉桃が舞台に登場する。まずはモーツァルトK.378、全くモダンなピアノと、全くモダンなヴァイオリンのモーツァルトは、逆に新鮮に感じてしまうのだから時代とはオソロシイものだ。あくまでもメロディラインを大事にしたノンビリした音楽に、第1楽章の終わりで拍手が出ても、それはそれで良いんじゃない、という感じてしまいます。第2楽章はピアノが完全な主役とよく判る演奏。フィナーレではモダン楽器の響きの明快さと、ちょっと大げさになってしまうところとが共存した、興味深いデュオだった。
こういう短めの演奏会では、演奏者のトークが常識になってきている。考えてみたら、堀米さんのお喋りを聞いた記憶はあまりない。「ステージでは演奏家は喋らない」という態度が常識だった最後の世代くらいなのかしら。意外にも、トークもふたりのデュオでした。
「11時半から弾くことはあまりなくて...」と照れくさそうに始まり、児玉とのデュオは4年間やってきたこと。本日弾くF-dur、A-dur、B-durの調性感の違い。続いて、ベートーヴェンの「ロンディーノ」と「春」第1楽章を弾きます、だって春ですから、と。決して達者な喋りとはいかないけれど、誠実そうな話しぶりは聴衆の空気に合っていて好感度は高いでしょう。この調性による色彩感や肌触りの違いの議論は、演奏者や一部のマニア的な聴衆にしてみれば当たり前の感覚なのだろうが、多くの聴衆はぼんやりと察している程度のことなのかもしれない。ここをもっと突っ込んで喋ってくれても良いのになぁ、と思いはするものの、そうすると昼間っから「お勉強」風なレクチャーになってしまうかもれない。このくらいの暗示で済ませるのが「はじめのいっぽ」、ということかしら。「春」は展開部にかけて極めて劇的で、一転した再現部の柔らかさが印象的だった。
この演奏会の音楽的な白眉はメシアンの幻想曲だった。メシアンに感心が深い児玉桃が話をリードする。「オルガンの響き、リズム、この曲も最初が面白いリズム。色彩。」やっぱり先ほど堀米が語った調性による色彩感の違いに話は繋がっている。頭っからメシアン節で、インド風の歌とリズムが交代する音楽だ。とはいえ、所謂ゲンダイオンガク専門家の鋭さや、これ見よがしの音色変化の強調ではなく、あくまでもモダンピアノのふくよかな響きを大事にしながら、色を添えていくメシアンである。
クライスラーの「中国の太鼓」で本プロは終了。ちょっと短いかな、と思ったら、フォーレの「子守歌」で濃厚だけど爽やかな味わいのデザート。ついでにもうひとつおまけに、「春」の短い第3楽章。これで演奏会はおしまいです。まだ12時半まで少し時間があるかしら。
それにしても、1時間のコンサートの案配というのはなんとも微妙だ。もうちょっと食べたいなぁ、って腹八分目で終わらせるなんて、なかなか見事な案配ではある。聴衆も大食いコンテストに出そうな高校生じゃあないんだもの、これくらいがちょうど良いのかしら。
終わってガラス張りロビーに出てみれば、「新緑の5月の色彩」って演奏会の隠れテーマが、今度は耳じゃなくて目から飛び込んで来た。そう、ようやく5月なのだよ、大川河口はね。
公演に関する情報
〈ライフサイクルコンサート#26〉
クラシックはじめのいっぽvol.5 ~ヴァイオリン&ピアノ~
日時: 2008年5月7日(水)11:30開演
出演者:堀米ゆず子(ヴァイオリン) 児玉桃(ピアノ)
演奏曲:
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ変ロ長調K.378
ベートーヴェン(クライスラー編):ロンディーノ
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番ヘ長調「春」op.24より第1楽章
クライスラー:中国の太鼓
メシアン:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲
ファリャ(クライスラー編):スペイン舞曲