林光・東混 八月のまつり26
報告:須藤久貴/大学院生/1階7列27番
投稿日:2005.08.8
ここなら息ができる。小説にのめり込んで、いつしか登場人物と会話している錯覚になるみたいに、林光さんの音楽を聴いていると、この世界でなら存分に呼吸できるような気がするのだ。日ごと生活していると自分自身には義務や嫌悪、世事には惨事、時おり眼をそらせたくもなるけれど、ほんの短い間でも代え難く美しい瞬間があるなら、そのときばかりは、軽々と乗り越えることができるだろう。音楽は悲しみの蹴り方を僕たちに教えてくれる。
林光さんの目は未来を向いている。古代ローマの詩人ヴェルギリウスを引き合いに出しながら「原爆へのプロテストだけではなく、未来に向かって語りたい」と冒頭に述べた。野球の話で和やかに始まった去年の「八月のまつり」とは打って変わって、林さんには何か思いつめた表情が漂っていた。 ≪原爆小景≫の張りつめた雰囲気は曲が終わるまで続いた。楽章の間も聴衆はほとんど咳一つしないような静けさ。去年よりも東京混声合唱団の響きは鋭さを増したように思われた――第2章<日ノ暮レチカク>の、ソプラノの高いGの音が糸をピンと張ったように歌うとき、あるいはトゥッティで不協和音が大きくうねりながら圧倒的な力で空間をえぐるとき。第3章<夜>から第4章<永遠(とわ)のみどり>へは、ほとんど間を置かずに入った。終章の平和への祈りは、それまで8月6日の一日を追っていたのとは違って、大きな時間の隔たりがある。それを音楽は一瞬で超克していくかのようだ。原爆から復興へのこの隔絶はあまりに大きいから、抜け落ちた長い時間が逆に意識せられてくる。僕たちはこの「行間」に込められたメッセージを読み取らなくてはいけない。
この日はさらに、 ≪とこしへの川 ―混声合唱、ヴァイオリン、ピアノのための≫が世界初演され、長崎の原爆を主題とした竹山広の短歌8首が2つの楽章に分けて歌われた。山田百子さんのヴァイオリンはオブリガートというよりも、一見すると合唱とは無関係に動いているようだった。「くろぐろと水満ち水にうち合へる死者満ちてわがとこしへの川」から始まる2つめの楽章は、寺嶋陸也さんのピアノが簡潔でリズミカルに動き出し、やがて音楽全体がひとつに収斂していく。「飛沫にひらく千の口見ゆ」と歌いながら曲調は明るくなっていくのが、アイロニカルにさえ思える。
≪林光ソングブック≫でようやく肩の力を抜いて聴いていられる。林さんが話したように、後半は「悲劇に対して希望を持てるようなテーマ」。親しみやすい愛唱歌が歌われた。<椰子の実>でテノール・ソロの朗らかさに舞台はパッと華やぐ。<ゴンドラの唄>の間奏で寺嶋さんのピアノは、ぐっと音量を落とし丸くおぼろげに響きを変える。歌い手たちの、のびのびと微笑んだ表情。<早春賦>の間奏にモーツァルト<五月の歌>を挿入した林さんにはエスプリがある。<うた>は特によかった。勇ましく、簡明な3拍子の有節歌曲で、じりじりと曲の終わりへ盛り上がる。心が高揚して「うたはどこでおぼえた たたかいを知っておぼえた」と、こぶしを振り上げ一緒に歌い出したくなる勢いだ。そしてこれに対照的な<ねがい>のおだやかな充溢。
アンコールに武満徹<死んだ男の残したものは>。ジャズ風に林さんはアレンジしている。よく知られた版とは違って、詩の重みによって過度に深刻になることを避けているようだが、しまいはユニゾンで静かに沈潜していく。そして宮澤賢治の<星めぐりの歌>。電球で模した星が瞬き、澄んだ歌声が響いたあとに、ピアノの後奏と呼応して舞台の明かりも消えていく。
公演に関する情報
〈TAN's Amici Concert〉
林光・東混 八月のまつり26
日時: 2005年8月3日(水)19:15開演
出演者:林 光(指揮)、寺嶋陸也(ピアノ)、山田百子(ヴァイオリン)、
東京混声合唱団
演奏曲:
林 光作曲/原民喜詩:原爆小景、
林 光作曲/竹山広 詩:とこしえの川-混声合唱、ヴァイオリン、ピアノのための
(2005委嘱作品世界初演)、
林 光ソング集:早春賦(中田章)/曼珠沙華(山田耕筰)/椰子の実(大中寅二)/
ゴンドラの唄(中山晋平)/明日ともなれば(詩・ロルカ)/うた(詩・佐藤 信)/
ねがい(詩・佐藤 信)